徳川幕府では大きな事件(安政の大獄)が発生しましたが、アメリカとの外交関係から日米修好通商条約の批准が急がれました。その背景には日米和親条約が結ばれ駐日総領事として、伊豆下田玉泉寺の領事館に着任したタウンゼント・ハリスから日米修好通商条約を結ぶようにと幕府に強く求めていました。この交渉には幕臣の岩瀬忠震が中心になって対応しました。坂本藤良著『小栗上野介の生涯』には「談判すること14回、終盤忠震は、またもハリスを驚かせるような申し出をした、条約の批准はワシントンでおこなうことにしたいというのである」。そこで幕府はヨーロッパ諸国とアジアとの関係について、情勢分析をして判断した結果勅許を得ぬまま「日米修好通商条約」を結びました。
条約批准のための遣米使節団については、内定していた人たちは安政の大獄の影響を受けて外されて、新たに正使 新見豊前守 副使 村垣淡路守の外国奉行に、そして小栗上野介は目付に抜擢されての起用でした。そして、この使節団の重要性から派遣される幕臣は総員77名の大規模のものとなりました。
使節団の渡米については、アメリカの軍艦ポーハタン号が派遣されることになりましたが、使節団の持参する品々はとても積みきれるものではありませんでした。そこで幕府内部においても予てから、日本独自の軍艦を随伴させたらどうかとの意見もありました。坂本藤良著『小栗上野介の生涯』によりますと「渡米使節団に随行させる別船の派遣は、水野、永井、岩瀬らが強く要望したところからはじまったのである。日本人の操船する別船を仕立てることが、諸外国への体面、わが国の海軍育成のために望ましいという上申は、早くも安政5年(1858年)8月(つまり条約調印の翌々月)に彼らによって提出されていた」と記しています。
そして、咸臨丸の責任者として軍艦奉行に任命された、外国奉行の木村摂津守が選任され、随行させる船は咸臨丸に決定、乗船者については、井伊直弼から木村摂津守に一任されていたので、築地海軍操練所の教授方頭取勝麟太郎(海舟)を始めとして、海軍操練所の教授が操船を担う士官として決定されました。当時の日本としては最高の海軍のメンバーであったと言えましょう。
(元横須賀市助役 井上吉隆)