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横須賀製鉄所物語

小栗上野介③

横須賀製鉄所物語<59>

「日米修好通商条約」批准のため、正使の乗船した「ポーハタン号」に同行する船の役割は何であったのでしょうか。正使一行のアメリカに持参する荷物が多く、「ポーハタン号」に積み込めなかったからでしょうか。

宗像善樹著『咸臨丸の絆』によれば、引用が少し長くなりますが、安政6年(1859年)11月24日江戸城桔梗の間において、老中より木村図書喜毅に対して遣米使節を内命する式が行われた。(略)松平和泉守から「上様におかれては、木村図書に特別の思し召しがおありでござる。それは我が日本国の軍艦を、遣米使節の海路を警備するための護衛艦として別船を仕立て、副使の木村図書を軍艦奉行として差し遣わし、彼地へ向かわせよ。」との御沙汰である。松平和泉守は続けて言った。「これは、ポーハタン号に搭乗する正使に病気や不測の事態が生じ、アメリカ国ワシントンへ上がること叶わざるときは、副使の木村図書が正使となりアメリカ国大統領に謁見いたさすべし、との御内意によるものでござる。しこうして、木村は副使といえども正使の新見と同格のお役目を担うことになるゆえ、さよう心得られたい」と将軍からの言葉を伝えました。

そして、木村図書が江戸城に呼ばれてから4日後の安政5年11月28日に木村は江戸城芙蓉の間において、正使新見豊前守、副使村垣淡路守、目付小栗豊後守、教授方頭取勝麟太郎らとともにアメリカに向けて出立するよう、正式に命じられました。木村図書喜毅は軍艦奉行に昇進し「摂津守」を名乗り禄高も千石から正使の新見と同額の二千石に加増されました。この様に幕府では正使の船に同行する「咸臨丸」について、大変に重要に考え提督の人選も慎重に考えて選考し、身分も正使と同等に処遇しました。

木村摂津守には、乗組員についてすべて一任されていましたので勝麟太郎以下海軍操練所の幹部を始め、日本海軍の実力トップのメンバー他塩飽諸島・長崎出身の水主、火焚まで手を打つことが出来ました。しかし、木村摂津守はこの航海が真冬の太平洋を横断するので、日本人だけでは危険ではかと考え、宗像善樹『咸臨丸の絆』によると「木村摂津守は老中を通じてアメリカ公使ハリスに対し、アメリカ人船員の乗船と航海案内の協力を打診した…」その結果アメリカ海軍大尉ジョン・マーサー・ブルック以下アメリカ人11名を加え総勢105名の随行団となりました。しかし、日本人乗組員はアメリカ人の乗船に激しく反対しました。日本人だけにより初の太平洋横断を達成するのだと意気込みが、皆の心に燃え上っていたのです。

(元横須賀市助役 井上吉隆)