勝麟太郎は、長崎海軍伝習所の1期生として入所しますが、何故か1年終了のコース設定にも関わらず、2期生、3期生の名と共に継続して記されています。
勝麟太郎は、3年間観光丸を操船し周辺海域での運行訓練を実施していて、軍艦の運航には十分に自信を持っていました。したがって、操船の実績が無いに等しいにもかかわらず、軍艦奉行に木村摂津守が任命されたこと、こうした人選をした幕府高官の鼻を明かそうとの思いで浦賀に向かいました。
浦賀に到着すると、東叶神社に参拝し航海の安全を祈願しました。その後、断食をして、さらなる神への祈念を深めました。現在でも東叶神社にはその事蹟が残されています。
浦賀港に到着し、航海用の積み荷が行われ準備万端整ったところで、正使一行のポーハタン号と共に日本を出港すべきものを、ポーハタン号よりも一足先にアメリカ本土を目指しました。勝麟太郎の胸の内には、日本人だけで咸臨丸を運航してアメリカ本土へ最初に足跡を残そうと考えていたものと思われます。
しかし、江戸湾を出て北上すると、もの凄い時化に遭い、勝麟太郎は操船の指揮どころか自らの船室から一歩も出ることができず、船酔いに苦しむことになりました。船は同乗していたアメリカ海軍ブルック大尉の指揮により、そして、アメリカ海軍の軍人の操船により、サンフランシスコを目指しました。その後、日本人士官も荒波になれると共にブルック大尉の操船指導を受けて、協力することが出来るようになりました。
長崎海軍伝習所の教育と日本近海での航海訓練は全て役に立たず、海の自然の猛威を実感し、士官達は操船技術を磨き上げることができました。
自室から一歩も出ることもできなかった勝麟太郎は、挫折感のみが大きく覆い被さりました。そして、士官達からも頼りにされず、アメリカの地を踏みました。
(元横須賀市助役 井上吉隆)