咸臨丸に乗船しアメリカに向かった木村摂津守一行は、正使一行よりも先にサンフランシスコに到着し、万延元年(1860年)3月8日に遣米使節団正使一行を乗せたアメリカの軍艦ポーハタン号を迎えることになりました。
咸臨丸は往路の太平洋で時化に遭い、船に重大な被害を受けました。咸臨丸の購入に当たっては新造船との売り込みでしたが、外装部分を外すと古材も多く使用されていて、帰国するには大規模な修理をしなければならない状況が判明し、サンフランシスコの海軍造船所に回航され修理することになりました。その後、正使を乗せた軍艦ポーハタン号も海軍造船所に着岸したので、咸臨丸に乗船した木村摂津守、勝麟太郎、佐々倉桐太郎、ジョン万次郎、ブルック大尉など主だったメンバーがポーハタン号を訪れ、お互いに無事到着したことを祝い、また、時化の中の航海で辛苦した思いなどを時の経つのを忘れてしまうほど語り合いました。
こうして正使一行が無事にアメリカに到着したことで、木村摂津守が乗り込んだ咸臨丸の任務は完了したわけですが、木村摂津守が軍艦奉行に任命されたときに正使一行のアメリカに随伴するとともに、正使一行が万一事故に遭い批准書交換が出来なくなった場合には、その代理をする任務が与えられていました。そこで、木村摂津守は自らも正使一行とともにワシントンに赴き、日米との初めての外交交渉の場を目にしたいと思いました。しかし、往路の航海での勝麟太郎の行動が艦長としての適正を欠き、サンフランシスコに入港した時には、乗組員からの信望がすでに失われていました。その上、勝自らが「木村軍艦奉行が乗船していなければ咸臨丸の秩序が保てず、無事帰国出来るかどうか分かりません」と木村摂津守のワシントン行きに反対するなど、結局木村摂津守の願いは叶いませんでした。「去りながら都府を訪せざるは極めて遺憾の事なり」と「奉使米利堅紀行(ほうしあめりけんきこう)」に当時の木村の思いが記されています。
帰国の船旅は、往路のブルック大尉からの航海に当たっての基礎知識から操船技術まで、習得した士官たちの手により日本を目指しました。同乗していたアメリカ軍人の手を全く借りる事はありませんでした。勝麟太郎の出番は全くなく艦長の責務は棚上げされ、士官たちの操船技術をただ見守るばかりでした。
咸臨丸は日本人だけの手により運行され、無事に浦賀港に入港することが出来ました。咸臨丸が浦賀港に帰国した日、5月5日を記念して、横須賀市では四大国際記念日の一つとして「咸臨丸まつり」が開催されています。
(元横須賀市助役 井上吉隆)