小栗上野介は、日米修好通商条約批准書交換のため派遣された外交団の監察として、その大役を果たして大西洋を経由し、世界一周の旅を終え1860年9月29日に無事日本に帰国しました。小栗上野介の才能を評価して監察に抜擢した、大老井伊直弼は小栗上野介がサンフランシスコに滞在中に「桜田門外の変」で、水戸藩士などにより暗殺されていたので、小栗上野介は帰国後の身分に不安を感じながら日々を送っていました。ところが、幕府としては小栗の力が必要なことから、11月にはその外交手腕を買われ外国奉行へと登用されることになりました。小栗上野介は、アメリカ滞在中には批准書の交換のみならず、日米間における貨幣の交換比率の交渉などでアメリカ側が目を見張る交渉力を見せました。そうした実績が背景となって、外国奉行に登用されることになったと思われます。
そして、外国奉行になって3ヶ月後に大変な事件が起こりました。ロシアの軍艦ポサドニック号が対馬に来て対馬を不法占拠します。ビリレフ艦長は不法占拠に抵抗する住民を殺害し、食糧などを略奪します。外国奉行である小栗上野介は急遽、咸臨丸に乗船して対馬に向かいました。そして、ビリレフ艦長と3度に渡る交渉を重ねますが、交渉は決裂し事態は更に悪化の方向に向かいました。ロシア側は、強力な武力を背景に交渉を進めるので、外国に対抗できる武力を持たない幕府では相手になりませんでした。小栗上野介にとってこの挫折感が、日本の国防強化の必要性を実感するきっかけになります。
そして、この事態に勝海舟は外国の力を借りなければ解決できないので、イギリス公使に軍艦の派遣を依頼してはどうかと老中安藤対馬守正信に提案しました。その後、依頼を受けたイギリス海軍が軍艦を派遣しロシア軍艦を排除することが出来ました。
小栗上野介は、この事件を契機に国防の重要性からワシントン造船所のような施設を早急に建設して、軍艦の建造、武器の製造をしなければならないと考えるようになりました。その後、小栗上野介は9月に対馬事件の対応について責任を問われる形で幕府から外国奉行を罷免されます。しかし、才能ある小栗上野介なので、その後いくつかの要職を歴任し、1864年8月に勘定奉行勝手方に任命されます。更に11月には小栗上野介が製鉄所・造船所の建設を幕府に建議します。幕府はこれを受け入れ、ここから製鉄所・造船所建設がスタートすることとなりました。
(元横須賀市助役 井上吉隆)