『横須賀海軍船廠史』慶応元年紀によりますと、横須賀製鉄所の鍬入れ式は9月27日に実施されたと記されています。横須賀市ではヴェルニー、小栗祭を毎年9月27日にヴェルニー公園で実施してきましたが、この時期の天候が不順で雨の日が多く、和暦の9月27日は西暦によりますと11月15日になりますので、第二次世界大戦後には西暦の11月に式典が実施されるようになりました。
鍬入れ式の当日には、徳川幕府の要人の外、フランス側からも関係者が多数出席して行われました。そして、フランス人関係者は良長院や公郷村田戸永嶋庄兵衛邸に分宿して製鉄所の建設に当たったと伝えられています。
また、『横須賀海軍船廠史』慶応2年紀10月18日の項に10月3日には柴田日向守がフランスで採用した技術者など43名が横須賀に到着したと記されています。その記事の中には、来日したヴェルニー以下の給与まで示されています。ヴェルニーは年俸1万ドル、医師サバチェは年俸5,000ドル、機械課長ゴートランは月俸400ドル、建築課長フロランは月俸400ドル、会計課長メルシエーは月俸270ドル等以下小使に至るまで43名の給与が記されています。当時の1万ドルの年俸は、その職務に照らして妥当な数値であったと思いますが、高額であるとの考えも否めません。
その後、技術者等の来日、3トンスチームハンマーを初めとする大型船建造の機械器具の輸入により製鉄所建設も本格的に開始されることとなりました。一方、徳川幕府と薩摩・長州・土佐の各藩による討幕運動も日に日に激化すると共に、慶応4年1月には鳥羽伏見の戦いに端を発した戊辰戦争へと突入する事になりました。
そういった状況の中でも、横須賀製鉄所の建設工事は順調に進められ、慶応3年には第1号ドライドックの建設に着手することとなりました。
(元横須賀市助役 井上吉隆)