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横須賀製鉄所物語

小栗上野介の最期

横須賀製鉄所物語<78>

徳川幕府と討幕軍との戦いは、鳥羽伏見の戦い以降は雪崩を打って東へと進行していきます。そして、討幕軍が箱根に差し掛かる慶応4年(1868年)1月14日、江戸城西の丸大広間で評定が行われました。このとき、「討幕軍に徹底抗戦すべきである」「和議を結んで恭順すべきである」と2つの意見が分かれ激しい議論が戦わされたと言われています。

小栗上野介は、討幕軍に対しての攻撃について具体的な作戦計画を示して、徳川慶喜に徹底抗戦を訴えます。坂本藤良『小栗上野介の生涯』によれば、「小栗の作戦計画は有名である。ごく簡単に言えば、敵を箱根山中に入れさせてから、退路を断つ。当時の幕府の海軍力は圧倒的に優勢であった。砲26門を有する開陽丸をはじめ新鋭艦8隻。これが駿河湾から敵を砲撃する。後続部隊は身を隠す場所もない。のちにこの作戦を聞いた官軍側の作戦立案者・村田蔵六(大村益次郎)は、もしこれが実行されていたら、われわれの首は無かったろう、と語ったという。だが、小栗の案は入れられなかった」と記されています。一方、村上泰賢『小栗上野介』によれば、「…慶喜の煮えきらない態度に憤慨するのも無理ありませんでした。他の幕臣も徹底抗戦を唱え、居たたまれなくなった慶喜が立ち去ろうとすると、小栗はその袖をつかみ引き留めようとしました。たまらず慶喜は袖を振り払い奥へと引き上げました。翌日の15日昼ごろ、登城出仕していた小栗は松平周防守康道から切紙(メモ)が届いて西丸に呼ばれ、老中酒井雅楽守忠惇から、芙蓉の門御役即ち勘定・陸軍両奉行の兼職を罷免されました」と記されています。

そのころ徳川慶喜は、上野寛永寺に謹慎してしまいました。罷免された小栗上野介は、一か月後の2月28日に江戸を発ち、自らの知行地である群馬県権田村(現在の高崎市倉渕町)に入りました。一方、討幕軍は東山道鎮撫総督・岩倉具定(岩倉具視の子息)を先頭に雪崩を打って北上します。

そして、坂本藤良『小栗上野介の生涯』によれば、「慶応4年(1868年)春も終わりに近い閏4月5日、小栗は、東山道総督府軍に出頭を命じられた。そして、有無を言わさず捕縛され、翌6日早朝、烏川の河原で家臣3人とともに斬首された。取り調べもなく、まことに非道の斬首としか言いようがない。」と記されています。

若くして幕末の優秀な人材をここに失うこととなりました。

(元横須賀市助役 井上吉隆)