小栗上野介が建議して徳川幕府が設立した日本最初の株式会社(コンパニー)である兵庫商社は、本格的な活動を開始した直後に、徳川慶喜の大政奉還により、運営自体そのものが困難になりました。
しかし、その後、兵庫商社に深い関わりを持っていた三井が中心となって、明治2年2月に東京貿易商社が設立されました。この東京貿易商社の設立にあたって、兵庫商社の設立に深く関わり、小栗上野介からその精神を引き継いだ三井家の三野村利左衛門が大きな役割を果たしました。この会社では、貿易と金融を取り扱い、5月には東京為替会社が誕生して金融を中心とした業務を取り扱うことになったので、東京貿易商社は東京通商会社として、貿易関係業務を引き継ぎ再出発することになりました。さらに、三野村利左衛門は、三井による銀行の設立を考えました。そして、大蔵大輔(現在の大蔵大臣)である井上馨に銀行設立について申請しました。すると、井上からは、三井が単独で銀行を設立するのであれば呉服業を止めるよう指示が出されました。呉服業は三井家伝統の200年来の家業であり、1673年の延宝時代に江戸に越後屋として開店した呉服屋から始まり、その後、江戸で豪商として成長し三井家の基礎を築いた原点でしたので、三井にとっては無理難題でありました。しかし、呉服業は分離され、三井の「三」と越後屋の「越」をとって「三越」となりました。
このようにして、三井は大きな犠牲を払いながら、明治5年には銀行用の建物を建築し、政府との間を調整して銀行の設立に至りました。この銀行の設立に伴って国立銀行条例が制定され「第一国立銀行」と命名されました。そして、日本最初の株主公募広告が出され、それに応募したのが59名で44万8千円だったと言われています。この第一国立銀行には、組織として頭取の上に「総監役」が設けられ、NHKの大河ドラマにもなった渋沢栄一が天下ることになり役人の天下り第一号となりました。
小栗上野介が描いていた、西洋のコンパニーの設立の夢は、兵庫商社の設立によって萌芽して、小栗上野介により多くの指導を受けた三井家の三野村利左衛門によって引き継がれ、株式会社へと発展してゆくこととなりました。
(元横須賀市助役 井上吉隆)