「横須賀製鉄所物語」の横須賀水道については、分かりやすく理解して頂くために2008年(平成20年)12月、横須賀市上下水道局発行の「水の旅」横須賀水道100年史を参考にしました。本文中に同書とあるのはこの印刷物を指すものでご理解をいただきたいと思います。
横須賀市の水道はヴェルニーによる走水の水道から始まりました。その後、明治新政府となり日本海軍に引き継がれることとなりました。当時の横須賀水道は「水の旅」によりますと「市営水道は、特に水に不自由していた埋立地の大滝、若松、小川の3町を対象に計画したもので給水能力は日量165立方メートル、給水人口は4,323人にすぎない小規模のものでした」と記されています。これは、ヴェルニーにより走水から横須賀製鉄所への給水された水道水が一部の市民を対象に給水されていたものでした。そして、同書によりますと「当時、軍港の整備増強によって増加の一途をたどる艦船給水や工廠用水(筆者注・横須賀製鉄所が海軍工廠へと変更)を走水系統の水道水でまかなうことは難しいと見た海軍は走水水源に見切りをつけ新たな基幹的な軍港水道の建設にのりだそうとのしたのです」と記されています。
そこで、三浦半島内では水源の確保は難しいと考えた海軍は相模川の支流の中津川を水源とした、半原系統の水道を建設するという計画が持ち上がりました。しかし、中津川の同じ場所に着目していた別の事業体がありました。その事業体は1904年から詳細な現地調査を実施するとともに、取水予定地点まで特定していました。
しかし、この計画は実現に至りませんでした。その理由としては「当時、中津川のこの水は地元の半原地区とその付近の製糸業及び穀物業の水車324台の運転用水に使用され、下流では田地約5平方キロメートルの灌漑用水に利用されていました。この地元の強い反対に計画を諦めました。一方地元住民は、海軍には協力的で土地の買収には応じてくれました。同書によれば「相手が海軍であっては仕方が無い」ということのようでした。当時の帝国海軍とは、自治体にとっても、地元住民にとっても、国民にとっても国防は第一義的な務めとされた時代だったのです」と記されています。(以下次号)
(元横須賀市助役 井上吉隆)