清水喜助がホテル建設に手を上げたことにより、ホテル建設が一歩前進しました。町奉行所から清水喜助に対してホテル建設の契約覚書所が1867年(慶応3年)7月に交付されました。その内容としては、
1、建設用地 築地操練所跡地
2、ホテルの規模 本館1棟 別館4棟を建設
3、ホテルの設計及び施工管理はアメリカ人による
4、ホテルに用いる調度品 アメリカから輸入
以上のものでした。いかにも先進諸国に教えを乞い、更に気を遣ってのホテル建設としか思えてなりません。更に、このホテル建設について外国人の反応は、公使を通して示されました。
1、外国人建築家の作成する図面に忠実に従って、工事が実施できるか。
2、江戸開市までの短期間で完成できるか。
3、ホテルの経営者は日本人でも構わないが、外国人が利用するので、利用者の要求を満たすため、外国人経営
者も考えにいれておくべきではないか。
以上の様な意見が日本側に伝えられました。いかにも日本が後進国であり何もわからないものと考え、見下したものでした。
ホテルの建設費は、清水喜助の試算によりますと、総工費の見積額は3万両であったと言われています。
ホテルの敷地は7,000坪にも及び海側には日本庭園を配置し、正面には大きな広場が配置されていました。
建物は、本館の建坪1,100坪余り、2階建て。中央に小さな3、4階と物見台。客室は1階に37室、2階に39室。別館の建坪104坪、平家建て4棟。客室は26室。
以上の規模で完成しました。
工事期限は、江戸開市に合わせ1967年(慶應3年)12月まででしたが、6カ月間の無理な工期は十分承知の上で、工事の完成は1868年(慶應4年)8月に竣工しました。
(元横須賀市助役 井上吉隆)