昭和50年代の初めの頃、横須賀市にとって国道16号の混雑と渋滞は市政の大きな課題でした。横浜横須賀道路は狩場から南進の見通しも立たず、本町山中線は図面には描かれていたものの、何時、誰が、実施するものか、規模も工事費についても未確定の部分が多く、計画は頓挫している状態に近かったと思われます。
その頃の市長は、全国市長会の行政部会長に就いていたため、永田町での会合が多く、本来ならば公用車で永田町の往復を行うところでしたが、国道16号の混雑と渋滞によって、時間が計算できず、公舎から向かうことが困難でした。そこで、秘書課長から浦賀駅発で午前8時台にただ一本の特急品川行きがあることから、予め席を確保して、京急大津駅で市長と席を替わる案が提示され、実施することにしました。一方、公用車は朝早く出発し、品川駅で特急から降りた市長を乗せて永田町まで送り届ける方法で会議に出席するという状況でした。このようなことから、国道16号の市内に於ける慢性的な渋滞をまず解消すべきと考えました。
そこで考えたのは、公有水面を埋め立て国道16号に並行的に市の中心部に道路を建設することでした。市長からの指示を受けた港湾部長は、国道16号から分かれて新港へ更に延伸し大津海岸までの埋め立て計画を作成しました。埋め立て面積は約60ヘクタールで、国道16号から久里浜への分岐する地点までの道路を整備することにより、市内の渋滞解消には一役買うのではないかと考えられました。
こうした規模の埋め立て計画には、環境アセスメントの手続きが必要であり、埋め立て計画の政策的な意図をしっかりと確立しなければならず、市長の下に港湾部長、都市政策室長が集められ政策的な位置づけについて検討がなされ、この埋め立て計画は、1)国道16号の混雑と渋滞解消、2)市街地内の住工混在地区の解消、3)市内の高等教育機関の拡充に伴う用地確保要請、により実施するものとしました。
そして、環境アセスメントの地元説明会に入り、参加者の主な意見としては、道路の混雑状況を見ている人は、説明にうなずき、一日も早い完成を期待しているという反応でした。一方、環境保全を考えている人たちは、何故貴重な海を埋め立てなければならないのか、規模を縮小出来ないのかとの意見、中には「本町山中線」というが、何年かかっても手が付けられないではないか、「本町なかなか線」と説明せよとのきつい意見まで飛び出しました。
しかし、大半の参加者は、市から埋め立ての情報を得られたとの満足感を示されていました。環境アセスメントの手続きも順調に進み、工事着工となり庁舎の屋上から沖合に陸地が伸びてゆくのが望めました。
そして、工事の進捗に併せて具体的な土地利用計画に入りました。1)国道16号の小川町から三春町までのルートが決定しました。2)住工混在地区の解消は、基準、地域指定、移転条件等の問題から良好な住宅地を形成することとしました。3)教育用地として、市内大学の文化系短期大学を4年制の学部とするため敷地の確保について要請があり、大学側との交渉に入りました。4)住居系用地も多く確保したので、入居者の生活支援施設用地を確保することにしました。以上の土地利用計画に基づいて土地処分に入りました。
まず、大学との契約が成立し、即入金されました。続いて、住宅用地、生活支援用地についても続々と契約が成立し、これで平成町の埋め立て事業が完了したかに思われました。
しかし、そこで問題が発生しました。契約第1号であった大学用地の件です。4年制大学の計画について、文部省(現在の文部科学省)の認可は得られず、大学側から市に対して買い戻し願いが提出され、転売禁止の約定により買い戻すことになりました。そこで教育用地が宙に浮くこととなり埋め立て事業会計の精算が出来ないことになりました。大学の撤退はマスコミにも取り上げられ、その用地への対応に追われることとなりました。
(元横須賀市助役 井上吉隆)