横須賀製鉄所は、1865年(慶応元年)11月に鍬入れ式が行われ、艦船の修理、清掃、建造のための乾船渠(ドライドック)の第1号は、1867年(慶応3年)に着工し、1871年(明治4年)に完成しました。そして、その年に横須賀製鉄所は、横須賀造船所と名称が変更されました。徳川幕府により工事が進められ、完成は明治新政府になってからでした。
完成式には、高村聡史「軍港都市横須賀」によると民部卿の有栖川宮熾仁親王、大蔵卿伊達宗城、参議大隈重信、佐々木高行らを迎え、盛大に行われた」と記されています。明治新政府の要人が数多く出席されたということは、明治新政府として横須賀造船所が如何に重要なプロジェクトであったかを知ることができます。更に高村は同書において「この船渠は現在もなお稼働中であり、国内初の石組船渠として日本遺産構成文化財(鎮守府)の一つとなっている」と記しています。
そして、1872年(明治5年)にこの施設のすべてを海軍が引き継ぎました。海軍省ではかねてからの悲願であった初の国産軍艦の建造に着手することになりました。国産軍艦第1号の設計者は、横須賀製鉄所の設計、施工の最高責任者であるフランス人技術者のヴェルニーでした。そして、軍艦の建造に直接従事したのは、日本人の職工でした。その職工の技術力は高く評価されました。この国産軍艦は1875年(明治8年)3月5日に進水し、進水式には明治天皇も行幸されました。
高村聡史「軍港都市横須賀」によると会場には「太政大臣三条実美、右大臣岩倉美親、参議大久保利通ら300人が参列」と記され、盛大に挙行されました。このように軍艦の建造は明治新政府にとっては国を挙げての大事業だったのです。
国産軍艦第1号は「清輝」と名付けられました。
(元横須賀市助役 井上吉隆)