日本初の国産軍艦である清輝は、国の守りだけではなく外交面でも大きな役割を果たしました。清輝は西南戦争に参加した後にヨーロッパに「実地研究」の目的をもって派遣されました。大井昌靖著「清輝のヨーロッパ航海」によりますと、「ヨーロッパへ航海させるために必要な費用の概算は、ジェームスという人物が調査、ジェームスは、明治5年の5月から明治12年9月まで、運用、航海に関する顧問役として海軍省に雇い入れられたイギリス人である。(略)ジェームスからの回答が明治10年10月23日に提出され、海軍省において航海に要する経費の他の部分の経費も含めて計算すると、総経費として、95,170円とされました。当時のコメの価格と現在の価格に置き換えて計算約5億円になると推定されます。そして清輝の航海は、谷口海将が当時海軍で発行していた雑誌に、明治海軍の三大航海の一つに数えられるほどの歴史し刻まれた航海でした。
1878年(明治11年)11月19日には、清輝はトルコ帝国の首都コンスタンチノープルを訪問し、トルコ軍艦の艦長に伴われて宮殿に参内しトルコ皇帝に謁見しました。この訪問は、明治新政府が誕生して10年、日本の国産軍艦で日本人だけの運航でヨーロッパへの航海は、一朝一夕でなし得たものではなく、徳川幕府時代から長い年月をかけて築き上げ実現できたもので、日本の海軍力を内外に示すことが出来ました。
大井氏の同書によりますと、「トルコ皇帝から清輝の艦内は美しく整理され、また日本はわずか数年間で格段の進歩を遂げたと聞き、大変素晴らしいことと思う。今後ますます日本海軍が発展するよう希望する。本日は、日本軍艦の艦長と士官に会えて満足している。今後も日本軍艦がトルコを訪れ、朕に会いに来てくれることを望む。トルコも日本に軍艦を派遣し、艦長及び士官を日本皇帝に拝謁させることを望むものである。この思いを日本国皇帝陛下に伝えてもらいたい」と述べられたと言う。
横須賀造船所が建設され艦船の建造、産業の近代化、産業革命へと急速に日本の近代化が進展したことは、小栗上野介の先見性にあることを忘れてはならないでしょう。
(元横須賀市助役 井上吉隆)