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横須賀製鉄所物語

あとがき

横須賀製鉄所物語<102>完

当初、「すまい造りメール」への掲載依頼で「横須賀製鉄所物語」の原稿を作成し始めた頃には、せめて10話ぐらいでまとめられたらという思いがありました。ところが、いざ、資料を集め内容を検討する中で書き始めてみると10話ではとても書き足らず、30話、50話と回を重ね、ついには100話を超えてしまいました。何を長々と書いているのかとのご指摘があろうかと心配していましたが、ここで一区切りを付けたいと思います。

この横須賀製鉄所が建設された経緯を簡単に説明させていただきます。小栗上野介が日米修好通商条約批准書交換で渡米し、国を閉ざした鎖国から日本の開国に向けての最初の外国訪問となりました。その折アメリカ側からワシントン造船所を案内され、その大工場を視察して目を見張りました。帰国後、小栗上野介は幕府に上申し、横須賀製鉄所建設に着手します。「幕府の財政が厳しい折に、なぜ製鉄所建設に着手するのか」という親友の栗本鋤雲の問いに、小栗は徳川幕府の崩壊が時間の問題だと考えていたので、「『土蔵付きの家』を残せる」と答えたと言われています。徳川幕府の中にこのような「将来の日本を考えた」偉大な官僚がいたので、財政が苦しいにもかかわらず製鉄所建設に着手することができました。国を思う心、私心を捨て国のため身を捧げる考えを貫いたからこそ成し遂げられた偉業でしょう。こうした人材が明治維新前後にどれだけいたでしょうか。

そして、幕末期から明治初期にかけて建設された横須賀製鉄所は、日本の産業近代化、産業革命に貢献した大事業でした。しかし、教育の面では中学校で使用されている教科書には何の記述もなく、また、高等学校の歴史の教科書には小栗上野介、フランス人ヴェルニーの記述はなく、横須賀製鉄所については「慶応年間(1865~68年)には、幕府がフランスの顧問団を招き、横須賀に造船所(横須賀製鉄所)建設を進め(以下略)」との一行のみの記述に留まっています。このように日本の近代化に向けて横須賀が果たした役割について、教育界はなぜに目を閉ざしているのでしょうか。横須賀製鉄所は、その後横須賀海軍工廠となり、現在は在日米軍横須賀基地として使用されています。特に当時建設されたドライドックは関東大震災に遭遇しても、何の損傷もなく現在も米海軍により使用されています。

こうしたことから「横須賀の郷土史」として忘れてはならないものではないでしょうか。そして将来に向けて引き継ぐことが重要なことではないでしょうか。

(元横須賀市助役 井上吉隆)

※引き続き、次回からは横須賀市のまちづくりについて綴った「横須賀ストーリーズ」を寄稿していただきます。